昭和43年4月22日 朝のご理解
                      平川直子ノート・松永享四郎

ご理解第九十二節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおけげ受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」


 これは、取次者に対する教祖のご理解の様に思われます、取次に出る者、又は、取次にあたらして頂いておる者に対するご理解だと思う、ね。
 神様は一体、天地の親神様は一体である、だから、あそこへ参ったから、おかげは受けられる、ここへ参ったら、おかげは受けられんと云う様な事は、ね、神様は同じだけれど、その守りをしている取次者、所謂、守り守りの力によって神のひれいが違う、神様を現し得る力の人が、取次をしなければならないと云う意味です。
 天地の親神様も、金光様も同じですけれども、どんどん人の助かる教会があるかと思うと、何十年経ってもやっぱりその教会を維持して行く為に、何人かの信者がついているといった様な教会も沢山ある、確かに、その守り守りの力によって、神のひれいが違う、神の守りをしておれば、諸事を慎め、神の守りをしておれば、諸事何事にも、身を慎ませて貰う、ね。
 朝寝をしてはならぬ、早く起きると、遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いにかかわるぞ、これなんかは確かにその通りだとこう思うね、先生と、取次者自身がやはり云うなら、表から見ても、裏から見ても、なる程と、例えば思われる信者が思う様な先生のところへかからなければ、神様へ対する、取次者に対するところの信頼がなからなければ、おかげは受けられん。
 お参りはした、けども先生に参るとじゃなか、神様に参りよるとじゃから、ね、と云う様な事に教会が、そう云う信者が出来て来ると、もうおかげは頂かれん、なる程、神様に参りよる、けど、神様に参りよるならば、ここに参る事はいらん、自分の家の神様の前でも良い。
 いや、自分の家の神様じゃない、庭の外へ出て見りゃ、空が神、下が神と仰有る、だから、神様はもうここへ遍満してござる、宇宙にいっぱい、どこからでも拝まれる、山からでも、川からでも拝まれる、神様なら、ね。
 先生や、もう   でしたら、神様に参りよるとじゃからと云うて、信心を続けたところで、それでは、教会がひれいにもならなければ、信者がおかげを受ける事も出来ん、何と云うても、やはり、ここには、信心の稽古に来る所、なるほど、ここに通うて来れば、稽古が出来ると云う場じゃなからなければならん、それには、信心の教導と云う、ね、信心を教えて下さる先生を目当てに、お参りをして来る。
 ごひれいの輝く教会では、例えば、甘木あたりのご信者さん方、今は、どうか知りませんけれども、昔は、もう共励会などに参りましてもですね、兎に角、神様のおかげでと云う人よりも、親先生のおかげで、親先生のおかげで、と申しました、もう本当に親先生にばかりに、ご修行をかけて、親先生のお取次ぎのおかげで、助かっておると、こうそれを実感しているから、思わずそう出るのです。
 親先生済みません、もう神様済みませんと同じ事、親先生有難うございます、感謝ばい、有難うございますと同じ事、そう云う教会であるなら、信者であるならば、必ず、その教会は、ごひれい輝いとるところであり、信者も生き生きと助かっておるところである。
 私共、なかなか身を慎むと云う様な事が出来ません、それでもやはり、いつもこれで済んだとは思うていない、そして、本当にまあ、完璧を目指して修行させて頂く、例えば、ここで、私が朝早起きをする、確かにそうでございますよね、私、5時のご祈念を仕えておる時、今皆さんがようやく、まあ6時か6時頃、ご理解に間に合いさえすれば、ええと云うぐらいで参って来た人が多かった。
 けども、私が4時のご祈念をさせて頂く様になったらね、もうすでに4時のご祈念を頂きたいと云うて、お参りをして来る人もボチボチ増えて来たと同時に、5時のご祈念には、いわばもうこれだけの人が揃うておるね、確かに神様が嘘を仰有らないと云う事が判るでしょうが、ね。
 氏子の所謂、参詣の早い遅いにかかわる、そこで、私はね、このみ教えを取次者、最近信奉者の一人一人が取次者、全信者全取次者と云う様な事が云われております。
 お互いがおかげを受けた事を、世の中の難儀な人達に取り次いでおく、ね、してみると、これはね、こうして取次のご用に専念しておる教会を守りしておる、神様の守りをしておる先生だけが取次者ではなく、ね、先生と信者と云う、それは違うだろうけれども、取次者と云う事においては、同じ事だから、皆さん一人一人が先ず本当におかげを受けなければいけない、ね、信心が判らなければいけない、信心を取り次ぐのである、おかげを取り次ぐのである、して見るとこのみ教えは非常に巾の広いみ教えと云う事になりますね。
 九十二節のご理解は、ね、神の守りをしておると云うだけのものじゃなくて、ね、お互いが神の守りをしておると云う事は、お互いが神様を頂いておる、そんなら、皆もやはり諸事に身を慎むと、朝寝をしておいてはね、参詣の早い遅いにかかわると、云われる様に朝寝をしておってはと、云う事はですね、寝るとか受けるとか云う事だけではない、例えて云うならば、むさぼる、むさぼり寝る。
 寝た上にも寝ろうとする、ね、そう云う心では参詣の早い遅いに、参詣者の早い遅いにかかわると云う事である、そうすると、食べ物、食べ物でも、むさぼる様な、卑しい食べ方をするなら、やはり、与えられる内容が変わって来る、ね。
 もうあいつ、腹いっぱいさえ食べらっちゃよかっちゃから、もうメリケン粉でもよか、といもでも、よかっちゃ事の様にですね、本当に物がお粗末になって来ると云う事は、そこにおかげが受けられなくなって来る、しまいには、頂けない様になって来る、あんま食べ過ぎて、胃拡張になりと云う様な事にまでなりかねない、ね。
 朝寝をしてはね、信者の参詣の早い遅いにかかわるぞと、こう仰有る、誰でも楽をしたいね、だからと云うて、その楽を、が、当たり前の様になったんでは、おかげは受けられん、楽をしながらおかげを頂こうなんて、こりゃあ虫の良い話しですね。
 本当に、最高の例えば、食べ物が欲しいと思うなら、最高の食べ物を頂けれる、こちらが、姿勢を正さなければいけんね、これは、全信者、取次者と云う様に、ような在り方、そう云う頂き方をすると、この九十二節のご理解と云うのは、これは取次者にござっておるご理解だけども、各々がこれを頂かなきゃならん、してみると、これはね、朝寝と云った様な朝寝をしてはならんとこうおっしゃる事はね、むさぼって食べてはならんと云う事にもなる。
 又、お金ならお金でも、無駄使いをしてはならんと云う事にもなる、参詣の早い遅いにすぐ響いてくる、ね、限りなくお金に恵まれる人、限りなく健康に恵まれる人、むさぼって、むさぼって食べる様な、又は、無駄使いをする様な事を致しましょう、ね、もう実にその例えば金銭の徳を受けると云った様な人達、ねえ、人達は見てごらんなさい、それはもう実に細かいですよ。
 ご信心抜きにしても、水の泡のつかみ取りと云った様なお金の儲かった人は、これはどうか知りませんけれども、本当にコツコツとして貯めあげて、云わば億万長者にでもなったと云う人達は実に細かいです。
 あれだけ持っとってどうしてあげんケチン坊じゃろうかと云う様に細かい、だから、お金の方がはずれん、もうそんな人のそばにおればね、そんな人のそばにおれば、もう大事にされるから、だから、やっぱり大事にされる者のところにひっついておる、離れん、ね。
 この九十二節のご理解はそう云う事にまで、こりゃ広がって頂けるのですよ、ですから、お互いが本当に、そう云う様な限りのない金の徳なら金の徳、健康の徳なら健康の徳を本当に頂きたいと思うなら、むさぼる様な食べ方をしてはならん、ね。
 そう云う意味あいでは、私共は、最近、糖尿病と云う病気のおかげで、私は大体いやしん坊ですから、むさぼる様にして食べる、腹いっぱい食べたいだけ食べる、ところが、食べると命の方に、この頃から関わるもんですから、食べない、少しでよい、もう、少しでよい、少しでよいと云う事になって来た。
 ところが、そう云う事ですから、その少-しでよいのですから、そうそれこそ、食べ物でも、吟味したうえにでも、吟味してから、食膳に出される様になって来る、云うなら、最高の食べ物を頂かせて頂ける事が出来ると云う事だから、糖尿病の人は、長生きをすると云う、食の頂き方が神様の道にかのうた頂き方をする様になる。 そう、なる程腹いっぱいに頂けんかも知れん、腹いっぱい頂くと云う事が、むさぼる事なんだ、ところが、もう一杯、確かに思う、けれども、それでは命を粗末にする、何を何を粗末にするかと云うても、命を粗末にする事くらい、ご無礼な事はないと云う事を、真から判らせて頂く、そこで、命を粗末にする事もなからなければ、食物を粗末にする事もない。
 はあ、もう一杯と思う、それが、もうそれじゃ皆さんは、3度3度ですけれど、私は、2度2度ですね、2度しか頂かんですから、その2度の食事のたんびに辛抱させて頂くね、その辛抱していく内に、今度は辛抱の徳まで受けられる、いよいよ有り難いでしょうが、ならお金でもそうですね、な-んにならん事に無駄使いをする、そう云う人が、金の徳に恵まれる筈が絶対にない、だから、そん人に金が入って来るともうバタバタ出てしまう。
 もう、まるでそらえものがついた様にして、はずれて行く、出しさえすりゃ、後から限りなく入って来ると云うのはね、その出す事がね、出す事がね、神様の道にかのうた出し方をするから、入って来るんですよ、それを、出す方に無駄な事に、もし出してごらんなさい、これに入って来る筈がない。
 そこに、何とそこに、何とね、スム-ズに入って来よったもんでも、入ってこん様になるね、入って来なければならない筈のものでも入って来ない、何故か?無駄使いをするからね、集金なら集金でも、よってはもう、当然頂いておくものでも、入って来ん様になるね。
 信心をさせて頂いておる者は諸事に身を慎む、朝寝をしてはならん、朝寝をしておると、参詣の早い遅いにかかわるぞと、仰有る事は、私共がね、全取次者としての、私共が、自覚に立って行くと、諸事に身を慎まなければならん、ね、諸事に身を慎まさせて頂くと云う事。
 そして、早寝早起きをしなければならんね、そうでないと、参詣の早い遅いにかかわると云う事ね、これは、食べ物、金銭と云う事だけの事ではありません、一切の事に通づる事なんです、自分が、例えば、これを求める、健康を求めるなら、健康を求める為にはね、今日、私がご神前に頂きましたのはね、あの赤白の水引きね、水引と云う、水引を使うでしょ、水引を頂く、水引と云う事は、どう云う事かと云うと、水はお恵みとね、健康なお恵みを受けたいならば、こちらにその健康のお恵みを、こちらに引かなきゃいけん。
 お金のお恵みを頂きたいならば、お金のお恵みを頂けれる、云わば、水引さんちゃおりましょうが、あの、私よくは知らんけど、あれは、まだ田にまだ水がある、必要な時には水引さんと云うのが、村で一人かかっちゃる、ね、あの田にも、この田にも、丁度水がいく様に、水を引いて廻りなさる、だから、堰き止めてあるところは開ける、多すぎるところは開けて行きなさる、おそらくそうされるのじゃろうと思う、だから、水引さん。
 神様のお恵みをこちらへ引きたいと思うなら、それをなさらなければいかんのです、だから、お金に例えば恵まれたいと思うなら、例えて一つの理があります。
 こちらを開け、上からドンドン入って来るところが、これが、無駄な事にドンドン出してござんなさい、みな空になってしまう、すると上の方まで堰き止められる、なんせ、無駄な事に出しよるもん、これじゃ、いくら道理であっても、入って来ませんね、けども、この水口を開けてです、水を新しい水にこう変えるとと云うか、それが必要なところにこれが出して行きよる、次ぎの田にかかる様にして行きよる、だから、新しい水が限りなく上から恵まれる。
 私共が、健康に恵まれたいなら、いわば先生方、ね、教会を守り守りをして、守りをしておる先生が、沢山の信者が助かる事の為のご用に使うて頂きたいなら、朝参りでん沢山お参りをして貰いたいなら、先ず、先生自身が、諸事に身を慎まなければならないと云う事。
 先生自身が諸事に身を慎まなければならないと云う事、出来ても出来んのでも、そうありたいと云うて、本気で願うとでなければならないと云う事、ように同じ事でしょうが。
 健康が欲しいならね、長生きのおかげ頂きたいのなら、食べるもん食べる、と云うて、そのいわば、むさぼる様な例えば、頂き方をする者の上に、健康が約束される筈がないでしょうが。
 お金でも無駄使いをする人の上に、お金の徳と云うものが身につく筈がないでしょうが、ね、ここは、これは神様に喜んで頂けれるより、神様の道にかのうたと、云う時には、私、億万の金でもおしんじゃならないと思う、だから、億万の金にも、又、恵まれるのである。
 な-んにもならない事に無駄使いをする、ね、持っとらばパスする、そう云う人の上に、いつまでも金がとどまっておる筈がない、金の徳がつく筈がない、ね、それこそ、あそこの集金がよらなならん、あそこから、自分の方に金は貰わん、当然貰うて良い様な金ですら、入って来ない、そげなこっちゃね、いらん事に粗末な事に使うからです。
 諸事に身を慎む、朝寝をする、それでは、この九十二節のご理解はね、取次者にでもなったからには、やはり、沢山の信者の難儀の取次が出来る様な沢山の参詣でもある様な、お広前の守りとして、おかげを頂きたい、頂きたいなら、このみ教えを本気で行じなければ駄目、そういう例えば、辛抱と云う事が、そう云う修行と云う事が、やはりやはり辛抱が必要。
 金使いの荒い人が金を使わんごと辛抱すると云う事は、やはり辛抱なのだ、ここは自分が改まらなならん、ね、私の様に口がいやしい、もう腹いっぱい以上に食べる、こげなこっちゃ健康にゃ良くないけどと思いながら、ついつい人間のその、まあ、風情にかられて、手を出しちゃならない食べ物にでも、手を出して食べたり飲んだりする。
 それでも健康を願う成り行きのおかげを頂きたいですから、神様は、糖尿病と云う病気をお恵み下さった、だから、もういよいよ頂けなくなった、そこを、有り難く頂かせて頂く事になると、その少しばかりの食べ物でも、吟味に吟味した食べ物といったものが与えられる、ここで、長生きはもう請け合いと云う様なおかげになって来る訳、ね。
 本当云うなら、糖尿病になってからそうしたんじゃ遅い、本当はね、こん限りのもうこん限りの貧乏してからでは遅い、まだ、どうやらこうやら健康の上にも、経済の上にも、どうやらおかげを頂いている内に、ここに目覚めてね、金輪際命を粗末にする様な事は致しません、そう云うむさぼりの食べ方は致しません。
 金輪際、神様がどれほど、お金を私に恵んで下さっても、それを無駄に使う様な事はい致しません、そこには、やはり辛抱がいる、ね、その辛抱をして行く内に徳が受けられると仰有る。
 これは、その前のご理解の最後のところに、例え一時は難しい事があっても、辛抱して行く内には、徳が受けられる、と仰有る、一時は、難しい事があっても、その辛抱をして行く内に、辛抱の徳が受けられる、その徳を受けさせて貰うとね、荒使いのいわば癖を持っていた人が、それを使わんで済む事が有り難くなって来る。
 荒食いをしよった人がです、今の私は辛抱なんです、云うならば、もう一杯食べたいと思う、もう一杯飲みたいとも思うけれど、その辛抱を有り難くさせて頂くから、その内には、辛抱する徳が受けられる、徳が受けられるとです、もう食べんでも済む、飲まんでも済む、云うなら、荒使いせんでも済む、有り難い事にだけしか使わん、有り難い事にだけしか頂かない、と云う事になって来る、そこに、諸事に身を慎むと云う事。
 早寝をしてと仰有る事は、そう云う事に通じて来る、それは、全信者、取次者と云う、最近云われておりますがね、そう云うお互いが、神様の守をしておるとしての頂き方、そうでしょうが、先生と信者はそりゃ違う、けども、取次者と云う事においては同じだ、云う風に最近は云うてあります。
 ですが、お互いが取次者になるなら、この九十二節、ああ、九十二節のご理解は、ありゃお広前の先生だけに、教祖が下さっておるみ教えだと云う、そは云うても、けどもそれではおかげは受けられん、いや、我こそ本当に取次者としての、資格を頂かせて貰おう、取次者、良い取次者にならして頂こうと云う位な、お互い、信者にならせて頂いたら、この次ぎの、この身を慎め、朝寝をしてはならぬとか云うみ教えを、本気で頂かにゃあいけん。
 そこに、早起きをすれば、信者が早く沢山参って来る様になる様に、私共が諸事身を慎ませて頂いて、今日例えば、食べ物とお金、経済の事を申しましたけれど、これは、ほかのすべての、おかげの事につながって行くのですよ。
 ですから、本当に自分の目の前に食べ物が出て来たならね、ならば、先ず行き先決めにゃならん、これ自分の好きなもんだけど、けれどもこれは二杯以上は頂きません、私は、食べる前に、いっちょ神様にご祈念する様な気持ちがいるね。
 甘い物の好きな人が、ぼたもちが、こうお皿に出て来た、もし、それをガブガブ食べる様な事をせずにくさ、ここには、もうそれこそ、よだれの流れんごと好きな食べ物が出てまいりましたけれど、命を大切にする上においてから、けれどもね、二つだけ頂きます、三つだけ頂きますと、命にさわらない数を、先ず、先に取っといて、それから以上は頂かない、頂きたいけど、それは、身を慎む事、頂きたいけども、それを食べない事は、命を大切にする事、そして、それが辛抱させて行く、その辛抱して行くと、徳が身につく。
 お金がガバッと入って来た、先ず、銀行に入れてね、使わせて頂くたんびに、神様にお伺いをしてから、使うと云う様な気持ち、ね、本当にそう云うおかげを頂かにゃいけません。
 私共、昨日一昨日、福岡の玉屋にまいりました、なる程、いろんな美術品の展示会があっとりましてたから、見せて頂いて、本当に目を楽しませて頂いて、けれどもね、あればいっちょ買いたいなとか、欲しいとは思いませんでしたね。
 それはもう、沢山の、デパ-トですから、どんな云うても、ハアあればいっちょ買うとかんば、便利が良かろう、あれを、ひとつ家に飾りたいな、あれをいっちょ買うていったなら、もうぜんぜん思いません、おかげを頂いた、ね。
 ところが、欲しゅうなかもんでも、デパ-トをグルグル廻りよると、あれも買おう、これも買おう、こりゃ便利が良かろう、買う、そして、帰ってよ-と考えて見ると、これは必要じゃなかもんまで、買うて来とる、そう云う様な人にお金の徳が受けられる筈がないです、ね。
 デパ-トば廻ったっちゃ、なあ-んもおかげを頂いて、この頃は取り立てて欲しい物もなくなったと云う事ならなきゃ、金の徳は頂かれん、なら以前から、そうじゃなかった、そりゃもん、見るもんごとに、あれもいいな、これもいいな、これも買いたいなと、金さえ出来て買うばってんと云う時代もあったんですけど、おかげを頂かせて頂いてから、本当に例えば、十円の金でも、神様の御物として、それをわって使う様な心持ちにならせて頂いたら、欲しい物もなくなって来た。
 心にゃ、必要なものだけど、必要に応じて、ちゃんと神様が与えて下さる様なおかげにもなって来た、ね、それは、やはり辛抱、そう辛抱して行くうちに、徳が受けられるのですね。
 そう、徳を受けるまで、やはり辛抱な訳と、ご理解九十二節はね、これは、先生方に対するみ教え、なる程、教祖は時には、その時には取次者に対してのご理解であったと思います、ね、けども、その表面に出ておる、その裏のところを頂きますと、只今申しました様に、食べ物やら、金銭の事にまでつながってまいります。
 所謂、取次の先生方が求めておられる、沢山の信者のお取次ぎがしたい、と願おうとしておられる、そんなら、お前が身を慎め、そんならお前が早起きをしよ、全取次者としての自覚に立ったらね、あれが欲しい、こうもありたい、ああもありたい、ならば、こうあれ、あああれと云う事になるのです、私が一時間早起きをさせて頂く様になったら、ご信者さんもやっぱりそれだけの修行が出来る様になられた様なもの、ね。
 これはもうはっきりしておる事ですから、皆さんのおかげの中にね、本気でお金が必要なら、本当に健康が必要なら、ね、健康が頂けれる、お金の恵みをこちらに引くためには、そこに、水引きの、水引きのね、水を引く、水がこちらに流れて来るための工作がなされなければならん、その工作もせず、しといて水だけこちらに流れて来る様にといったって流れて来るものまでが、流れて来ん。
 そうでしょうがね、水引く神様のお恵みをこちらに引かせて頂く、なら引かせて、只今のご理解のように、ね、信者が欲しい、信者が沢山欲しいなら、今の九十二節のご理解を行じなければならない様に、お互いが欲しておるもの、そう云うもの、今引いたから、今そう云う心になったから、今ちゅう事じゃいかん。
 一時は難しい事があっても、と仰有る、一時は難しい事があっても、辛抱して行くうちに、辛抱の徳が受けられる、ね、その徳に限りない、お恵みが水を引く事が出来るおかげになって来るのでございます。    どうぞ。